LOGIN第55話 王妃の罪と告白銀鎖へ流れ込んだ力は、火ではないのに王妃セラフィナの肌を焼いていた。首の輪から流れた血が白い夜着を汚し、胸元へ食い込んだ鎖の下では、皮膚が青黒く変色している。王都中から集められた祈りは持ち主へ返ったはずなのに、祭壇へ残された歪みだけが消えず、十七年前に最初の承認を与えた王妃へ集中していた。「母上から離れろ!」石床へ叩きつけられたルシアンは、よろめきながら立ち上がり、アウレリウスへ向かって駆けた。護衛隊長が止めるより早く、アウレリウスの杖が振り下ろされる。床に刻まれた紋様から黒い光が噴き上がり、ルシアンの正面へ壁を作った。彼は腕で顔を庇ったものの、再び弾き飛ばされ、祭壇の端へ肩から落ちた。エステルが駆け寄ろうとしたが、ルシアンは起き上がりながら片手で制した。「僕より母上を診てくれ」「診るために近づけないから困っているのよ。あなたまで骨を折ったら、患者が一人増えるでしょう!」「骨は折れていない」「医者でもない人間が勝手に診断しないで!」怒鳴り返したエステルの声には、恐怖がにじんでいた。王妃の鎖へ触れられない以上、医者としてできることがほとんどない。その無力感を振り払うように、彼女は薬鞄から布と止血薬を取り出し、いつでも駆け込める体勢を整えた。ケイルはエララの前に立ち、王妃へ流れ込む力を見据えていた。黒い炎が両腕を覆っているものの、それを放つことはできない。炎で鎖を焼けば、行き場を失った力がセラフィナの身体を内側から貫く。「外から壊せないなら、内側からほどくしかない」「ですが、王妃様はあれだけの力を受けています。今、心へ触れれば、私まで引き込まれるかもしれません」エララが答えると、ケイルは彼女を振り返った。「できないと言っているのか。それとも、一人では危険だと言っているのか」問われて、エララは言葉に詰まった。以前の自分なら、危険だと分かっていても黙って手を伸ばしていただろう。できるかどうかではなく、やらなければならないと思い込み、倒れたあとで周囲を悲しませても、それは仕方のな
第56話 その王冠はいらない白い帯が腰へ食い込んだ瞬間、エララの足元から感覚が奪われた。花嫁椅子から伸びる帯は布ではなく、過去に彼女が口にした誓いを細く撚り合わせたものだった。振りほどこうと力を込めるたび、懐かしいはずのない声が耳の奥によみがえる。――私は生涯、王太子殿下を支えます。まだ運命という言葉を疑うことさえ知らなかったころ、エララ自身が口にした言葉だった。周囲から求められ、期待を裏切れば愛されなくなると怯えながら、それでも最後には自分の声で誓った。そのため、誰かに押しつけられた命令よりも厄介だった。ケイルが帯をつかむと、黒い炎が激しく弾けた。帯の表面に浮かぶセラフィナの告白が、炎を拒む壁となっている。「触らないでください。ケイルまで取り込まれます」「お前に巻きついているものを見ながら、手を放せと言うのか」「力で引けば、私の過去の誓いまで裂けます。何が起きるか分かりません」「では、どうすればよい」苛立ってはいるが、ケイルは勝手に炎を強めなかった。帯をつかんだまま、エララの答えを待っている。その指先から伝わる熱は激しいのに、力のかけ方だけは慎重だった。答えを探そうとしたエララの耳に、苦しげな息が届いた。ルシアンは自分の喉へ両手をかけ、指を食い込ませていた。護衛隊長が背後から腕をつかんでいるものの、胸の印から流れ込む命令のほうが強く、引き剥がすことができない。「殿下、手を開け! 聞こえているなら返事をしろ!」「き、こえて……いる」「だったら力を抜け!」「できるなら……やっている!」顔を赤黒くしながらも、ルシアンは怒鳴り返した。手首を結ぶ黒い炎が青白く燃え、彼の意識が奪われかけていることを告げている。エステルが鎮静薬を取り出したが、すぐには使わなかった。「今、薬で意識を落とせば、身体の主導権を印に渡すかもしれない。ルシアン、自分で呼吸を止めないで。少しずつでいいから息を吐きなさい」「喉を&h
第55話 王妃の罪と告白銀鎖へ流れ込んだ力は、火ではないのに王妃セラフィナの肌を焼いていた。首の輪から流れた血が白い夜着を汚し、胸元へ食い込んだ鎖の下では、皮膚が青黒く変色している。王都中から集められた祈りは持ち主へ返ったはずなのに、祭壇へ残された歪みだけが消えず、十七年前に最初の承認を与えた王妃へ集中していた。「母上から離れろ!」石床へ叩きつけられたルシアンは、よろめきながら立ち上がり、アウレリウスへ向かって駆けた。護衛隊長が止めるより早く、アウレリウスの杖が振り下ろされる。床に刻まれた紋様から黒い光が噴き上がり、ルシアンの正面へ壁を作った。彼は腕で顔を庇ったものの、再び弾き飛ばされ、祭壇の端へ肩から落ちた。エステルが駆け寄ろうとしたが、ルシアンは起き上がりながら片手で制した。「僕より母上を診てくれ」「診るために近づけないから困っているのよ。あなたまで骨を折ったら、患者が一人増えるでしょう!」「骨は折れていない」「医者でもない人間が勝手に診断しないで!」怒鳴り返したエステルの声には、恐怖がにじんでいた。王妃の鎖へ触れられない以上、医者としてできることがほとんどない。その無力感を振り払うように、彼女は薬鞄から布と止血薬を取り出し、いつでも駆け込める体勢を整えた。ケイルはエララの前に立ち、王妃へ流れ込む力を見据えていた。黒い炎が両腕を覆っているものの、それを放つことはできない。炎で鎖を焼けば、行き場を失った力がセラフィナの身体を内側から貫く。「外から壊せないなら、内側からほどくしかない」「ですが、王妃様はあれだけの力を受けています。今、心へ触れれば、私まで引き込まれるかもしれません」エララが答えると、ケイルは彼女を振り返った。「できないと言っているのか。それとも、一人では危険だと言っているのか」問われて、エララは言葉に詰まった。以前の自分なら、危険だと分かっていても黙って手を伸ばしていただろう。できるかどうかではなく、やらなければならないと思い込み、倒れたあとで周囲を悲しませても、それは仕方のな
第54話 祈りを返す鐘歪んだ月冠がルシアンの頭上へ降り始めた瞬間、祭壇を囲む神官たちが一斉に祈りの言葉を唱えた。それは神へ捧げる祈りというより、何度も同じ文句を繰り返すことで、別の考えを押し流そうとする命令に近かった。銀鏡でつながれた王都各地の礼拝所からも声が重なり、老若男女の区別を失った巨大な響きとなって祭儀場を揺らす。「我らは月冠を戴く王を認めます。我らは月の聖女との婚姻を認めます。我らの願いを王へ預け、王の願いを我らの願いとして受け入れます」月冠とルシアンの間に、黒い糸が次々と結ばれていく。ルシアンは両足を踏ん張り、胸元を押さえながら耐えていた。王冠そのものへ手を伸ばせば、印に命じられて自ら戴冠を受け入れた形にされると分かっているのだろう。指先を強く握り込み、爪が掌へ食い込んでも、頭上を見ようとはしなかった。「ルシアン殿下、下を向かないでください」エララが声をかけると、彼は苦しげに顔を上げた。「君は僕に、あれをよく見ろと言うのか」「目を背ければ、大司教は『受け入れる覚悟ができた』と解釈します。睨みつけてでも構いません。あなたが何を拒んでいるのか、ご自分の目で確かめてください」「相変わらず、優しいのか厳しいのか分からないことを言う」「以前の私なら、代わりに拒んであげようとしたでしょう。でも今は、それをしてはいけないと分かっています」ルシアンは乾いた笑いを漏らし、それでも顔を上げた。降りてくる月冠を正面から見据えた途端、胸の印が黒く輝き、膝がわずかに折れる。その身体を支えようと護衛隊長が踏み出したが、ルシアンは片手を上げて止めた。「まだ立てる。僕が助けを求めるまでは、手を出さないでくれ。何もかも一人で背負うつもりはないが、立つことまで誰かに任せたくはない」護衛隊長は不安を残したまま足を止めた。命令だから従ったのではない。ルシアンがようやく自分の望みを口にしたから、その選択を尊重したのだ。アウレリウスは二人のやり取りを眺め、慈悲深い笑みを崩さなかった。「言葉で抗う姿は美しいものです。ですが、個
第53話 偽りの戴冠式が始まる神殿へ続く扉を抜けた途端、回廊の造りが変わった。荒く削られた石壁は白い月石の化粧板に覆われ、床には銀糸を思わせる細い溝が幾何学模様を描いている。かつて王族が月神の前で戴冠の誓いを立てた場所なのだろうが、今はその荘厳さが、逃げ道のない檻のように感じられた。銀色の溝には黒い光が流れていた。王都中から集められた祈りが床下を巡り、祭壇へ注ぎ込んでいる。次の鐘が鳴れば、この流れは一気に強まり、祈りという名を借りた服従が婚姻の証人にされる。ルシアンは胸元を押さえながら先頭を走っていた。手首に巻かれた黒い炎は、青白く変わっては戻ることを繰り返している。そのたびに足取りが乱れるものの、彼は止まらなかった。「この先に小礼拝堂がある。そこを抜ければ、祭壇の北側へ出られる。戴冠式で王族が入場するときに使う道だ」息を切らしながら説明する声に、エステルが眉をひそめた。「あなた、胸が痛むなら正直に言いなさい。祭壇へ着いた瞬間に倒れられたら、運ぶ手間が増えるのよ」「心配ではなく、手間の話なのか」「心配している相手に『無理をしないでください』と優しく頼めば、素直に聞く人だと思う?」「少なくとも、君に優しく頼まれるよりは、大司教に命令されるほうが現実味があるな」「口が回るなら、まだ倒れないわね」エステルはそう判断すると、走りながら薬鞄から小さな包みを取り出し、ルシアンへ投げた。中には苦みの強い乾燥薬草が入っているらしく、受け取った彼が匂いを嗅いだ途端、露骨に顔をしかめる。「噛んで。心臓の薬ではないけれど、呼吸は少し楽になるわ。ただし、さっきの鎮静薬がまだ残っているから、追加で勝手な薬を飲んだら殴るわよ」「君は医者なのか、脅迫者なのか、どちらなんだ」「命を粗末にする患者に対しては、両方よ」不満そうにしながらも、ルシアンは薬草を口へ入れた。あまりの苦さに目元を歪めたが、吐き出すことはなかった。そのやり取りを聞いていた護衛隊長が、わずかに口元を緩めた直後、前方へ拳を上げた。全員が足を止める。曲がり角の向こうから、鎧の触
第52話 私を捨てろという王妃の命令古い月の神殿へ続く地下回廊は、人ひとりが両腕を広げれば壁に指先が触れそうなほど狭く、長いあいだ閉ざされていたはずなのに、奥から流れてくる空気には澱んだ匂いがなかった。冷たい石と消えかけた香油、それに、どこかで焚かれている香の甘ったるい匂いが混じっている。儀式はすでに始まっている。その事実は、低く連なる祈りの声よりも、エララの目に映る無数の黒い糸によって、いっそう明確に示されていた。糸は壁の亀裂や床石の隙間を這い、王都の方角から神殿の奥へ集まっていた。まだ誰かを完全に縛ってはいないが、触れた者の不安や服従心を少しずつ吸い上げ、祭壇へ運んでいる。人の祈りを川にたとえるなら、これは川ではない。細い管を一人ひとりの胸に差し込み、気づかれないように血を抜いているようなものだった。エララは足を止めず、胸元から折り畳んだ手紙を取り出した。王妃セラフィナが西塔の隠し書庫に残していた最後の手紙である。急いで書いたらしく、文字の一部は乱れていたが、筆圧だけは最後まで弱まっていなかった。先頭を歩いていたルシアンが、背後で紙の擦れる音を聞き取ったのだろう。肩越しに振り返り、苛立ちを隠しきれない声で言った。「今、読む必要があるのか。母上は祭壇にいる。大司教は僕たちが回廊へ入ったことに気づくかもしれない。手紙に何が書かれていようと、急ぐべきだ」「だからこそ、今読むのです。王妃様が何を望んだかだけではなく、何を恐れていたのかを知らないまま走れば、私たちは同じ失敗を繰り返します」「母上の恐れなら分かっている。証拠が失われることだ。自分の命より王家の罪が暴かれることを選んだ。いかにも母上らしい、立派で、冷静で、腹が立つほど正しい判断だ」言葉が進むほど、ルシアンの歩幅は速くなった。怒りに任せているようでいて、右手は胸元の上着を固くつかんでいる。そこには、アウレリウスに刻まれた偽りの忠誠の印がある。今の彼が急ぐのは母を救いたいからだけではない。立ち止まれば、印の奥から呼びかけてくる声を聞いてしまうからだ。ケイルが無言でルシアンの前へ腕を出し、その歩みを遮った。「急ぐことと、何も考えずに進むことは別だ。貴様







